長野駅前の事件で思うこと

またしても悲惨な事件が起きました。被害に遭われた方、ご家族、関係者の皆様にはどれほどお辛いことかとお察しいたします。少しでも早く(という言葉はあまり好きではありません。早さを求めると上手くいかない事もあります。ゆっくりではあっても確実に)心が安らぐ日が訪れますようお祈り申し上げます。

それにしてもこのような事件が頻発していることには、一般市民として心が痛むと同時に、福祉に携わるものとしては何かできることはなかったのかと考えさせられるところです。

犯人は46歳男性。首都圏の大学を卒業し、その後のことは分かりませんが、10年ほど前に実家へ戻り、引きこもった末の犯行と新聞等で報道されています。

新潟青陵大学大学院の碓井真史教授は「通り魔・複数人を狙うような人は、実はもともと有能だったり恵まれていた人が多い。途中で挫折し、自分の人生はこんなはずじゃなかった」と孤独と絶望感に押しつぶされて、「最後に大きなことをやってやれ」というのが典型的な通り魔殺人事件」と述べられています。(Yahoo!ニュースより)

ソーシャルワーカーとして注目する点は2点あります。一つは引きこもりの長さも含め、事件に至るまでの期間です。30歳で挫折したとしても、10年以上やり直すチャンスが会った。その期間に出会いなり、働きかけなり何かがあれば、全く違う今があったのではないかと思うのです。もう一点は、各種制度が十分機能していないのではないかという点です。福祉制度的には生活困窮者自立支援法など困っている方々に対する各種法制度が整備されているはずで、行政も地域の方もある程度は本人の状況を把握できていたのではないかと思われます。この事件に限らずですが、なぜこのような結末になってしまったのか?この地域・事件だけの問題ではなく、日本全体で共有すべき課題ではないかと思います。このような言い方をして申し訳ありませんが、この事件から多くの事を学ぶべきで、決してその犠牲を無駄にしないという姿勢が、被害に遭われた方への花向けにもなると思うのです。

また別の見方をすると、この事件は10年以上かけて作られたとも言えます。つまりまだ表面化していないが、これから現れるかもしれない事象が、色々なところに潜んでいるのではないか、ということです。もちろん引きこもりの方がそうなる、という事ではありません。引きこもりの方だけでなく、長期間社会的に孤立している方々は追い込まれ、望んでいないにも関わらず、反社会的な行動に追い込まれる可能性があることを排除できない、と言えるのではないかと思います。これは誰にでも当てはまる事です。ライフステージの変化の中で、家族からの独立や死別の結果社会的に孤立してしまう、という可能性はどなたにもあります。しかも「プライバー」という名の大きな壁が、人々を隔てています。ある意味現在の社会は、表面的・制度的には整備され暮らしやすいように見えますが、生き残るには厳しい社会と言えるかもしれません。

話が脱線してしまいましたが、ソーシャルワーカーとしては、上記2点を踏まえ、身近なところで出来ることをさせてもらい、地域の人たちのお役に立ちたいと考えます。地域で孤立しているような方がいれば気に留めて、何かできることはないかと考える。自分ごととして考える。まずはこれがスタートになるのでしょう。関心を持っていれば、小さな波紋でも、いつか重なり合って大きなうねりになるかもしれません。我が事として考えること。これが未来を変えていく鍵ではないかと思います。


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